比較論

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子育てでの比較

長男は生まれつき聴力障害があり、赤ちゃんの頃に残存聴力を生かす聾教育を行っている聾話学校に乳幼児部から幼稚部卒園まで通い、小学部から高等部卒業までは都立の手話を取り入れた学校でお世話になった。

聴覚障害の他にも背骨の奇形や斜視などがあり、新生児の頃は「もしかしたら一週間位の命かも」などと医者から言われたような子供だったので、彼に対しては基本「元気に生きてそれなりに成長してくれりゃいいや」と思っていた。

なので勉強面では(聾学校の中で)他の子と比べて「どう」とか、この教科が劣ってるからこれを重点的にお勉強させなきゃ。などというのは思ったことがなかった。

でもなんだろう、口話法(残存聴力を補聴器で補い、口話を伸ばしてやる聾教育)の環境にいた頃は時々微妙な気持ちになったものだ。

乳幼児部(0歳~2歳児)は個別指導が主だった。

赤ちゃんの取り巻く世界が「家庭と先生」だけの時は比較的「そのまんまのわが子」を愛せる時期だ。

2歳頃からみんなでお歌を歌ったり、一緒に遊んだり、など他の子供との集団での時間が少しづつ増えてくる。
「集団の中でのわが子」として息子をとらえた時、どうしても他の子と比べてしまうようになる。

聾学校の中でも例えば
「うちの子は声をたくさん出した」とか
「うちの子はこんなおしゃべりをした」など他のママが嬉しそうに話しているのを聞いた時は正直おもしろくなかった。

子供の発達や成長の速度はひとりひとり違う。彼は彼のペースでいいんだ。ということくらい頭の中でわかってはいるけど、口話法教育の環境の中にいると声を出したり、おしゃべりをしたりする子供が優等生に思えてくる。

そんな自分を流せる時はいいけど、そうでない時は自分の努力が足りないのか、それともこの子は他にも発達障害などがあるのか。。と考えてしまう。

比べる対象が出来てきた途端、「そのまんまのわが子」の価値のようなものを自分の中で勝手に下げてしまう罠にはまってしまう。そうすると、「我が子の足りないところ」にばかり目が言ってしまう。
よその子と比べて「どう」というのははっきり言って「幻想」だ。なんの意味もなさないし、自分で不幸を作っている。

これは子育てでの話だが、子育て以外の話でも全く同じである。

社会の中で他者と比較をすることで自分の立ち位置をイメージしたり、能力や技術も競争意識というものがあるからこそ向上していくものも大いにあると思う。

他者との比較は受かりたい試験に挑んでる時は競争なのでわかるけど、他は幸せから遠ざかるなと思う。

でも、例えば
「(過去に比べて)すごく売れるようになった」とか
子供に対して「昔に比べてよく笑うようになった」など過去(-)→未来(+)の比較は自分が明るくなるので良いと思う。

では、SNSなどで
「あの人楽しそうやな」(+)
「私はそれより以上楽しいし!」(++)
これは比較のループにハマってないパターンか。内容によってはその人と共有したくなるな。それもいいかもしれない。

例えば(その国の方に失礼だが)
「この国の人達食べるのも大変そう」(-)
「それに比べて私達は家もあり、食べ物や水にも困ってない。感謝だ」(+)

他者との比較において、自分の豊かさ、小さな幸せに気がついたりすることもあり、自分の中で(+)で終わる比較は感謝につながるので良しだと思う。

 

 

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