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作品・日々の観察・制作

伊豆朝日に照らされた海岸

父との最後

母がよく言っていたのは、
こうなる兆候は前からあって、ちょくちょく「気分が悪い」とうずくまったりすることがあったようだが、
「なんてことあらへん!」と少し横になると体調が戻ったりしていたそうだ。

今にも父のところへ行きたかったけれど、、、結局弟とラインのやり取りをし、一週間ほどしてまた神戸へ行くことになった。

父は救急集中治療室で心臓にいくつものパイプを通され、(人工心肺)その他は透析、点滴、、のパイプも身体に通されていた。
身体へのパイプを弟が数えたら22本もあった。

睡眠薬を投与されているので深い眠りについていた。

起きていたら、パイプなどの処置で痛みに耐えられないはずだと看護師さんから言われた。

もしかしたらもう今日かも??

そんな日が続いた。

人工心肺で心臓の動きが良くなればパイプがはずせて一般病棟に行けるのだか、心臓の動きが一向に良くならなかった。
と同時に、しばらくは悪くもならなかった。

「仮に心臓の動きに回復が見られてよくなったとしても、足や身体の動きが以前のようにはなりません、歩くこともできないかもしれません。
以前の生活に戻るのは難しいです。」と医者に言われた。

なにせ病院嫌いの父で、
風邪をひいても熱を出しても病院へはいかない主義の人だった。

薬も飲まない人だったからか、投薬されてものすごくそれが腎臓や他の臓器には効いていたようだった。

隣の部屋で、運ばれてきた人が亡くなったようだ。20代?くらいの人のようである。
壁で顔までは見えないけど、家族たちの声が聞こえてくる。。。若い人が急に亡くなるのは何よりも辛いな。

救急集中治療室は回復する人は回復し、そうでない人は亡くなり、、
多くの人は大体1週間くらいでその部屋をあとにするようだが父の場合は48日間お世話になった。

医者はとにかく「生かそう」「生かそう」とする。

そう教えられてきて今日までやってきたのだと思う。
それはそれで素晴らしいけれど、、、

私達家族は、父への治療に対して、
人工心肺のパイプが外せて、回復し、以前のように話ができる状態になれるのならそれは望ましいけれども
それができないのなら、「痛くなく」「苦しくない」時間を送ることを望むと医者に伝えた。

辛い苦しい治療でなんとかして生存させるという意識ではなく。

だからといってパイプを抜いたりなど治療をやめるわけにはいかない。それは死を意味する。
どうすればよいのか。もう委ねるしかなかった。
いつまで続くかわからないけどこのままで経過を見るしかない。という状態が続いた。

でも48日間、不安で先のわからない日が続いたわけだが、もしものときの事に関しては着々と準備ができた。

父は(もしものことのために)何の準備もしていなかった。
何かあったら残された家族が大変だからいろいろ決めて書いといてよ。と家族皆で父に懇願していたのだが、
からっきしなにひとつ一切準備していなかった。(絶対そんなもんやるか。といった感じ)

なので世間一般ではどういわれるかわからない事かもしれないけど、
この48日間で心の準備はもとより、葬儀準備に始まり、預金の出し入れなど亡くなってしまってからでは大変になる手続きなどに時間を使うことができた。

(後になって(亡くなってから一ヶ月後)届いた病院からの請求書を見て驚いた。
市の病院であったが「救急車で運ばれてICUでの処置48日間の医療費」というものが私達には想像できなかった。

父は後期高齢者だったので20万以内で済んだのだが、
もしこれが後期高齢者ではなかったら。。と点数で計算してみたら、ちょっとした外車一台分くらいの医療費だった。。。
世の中の人達はどうしているのだろう??)

桜

病院の前の桜が印象的だった

4月に入ってからは「もう明日かもしれない。」という時が何度かあり、都度様子見。となり東京へ戻ってまた神戸へ行って、という1ヶ月間だった。

東京の自宅に戻っても気がそぞろでいつもの生活がままならない。

あれほど病院嫌いの父がたくさんのパイプに繋がれてマックス状態の治療。。。
この状態そのものを父自身はどう感じているのだろうか??

生前、そうなったときにどうしてほしいか。という言葉だけでも聞いていればそれに従ったのだが、、、

5月に入って血圧が下がってきた。いよいよなのかと思った。
さらに血圧がぐっと下がり、9日の日、家族で病院に来るようにと連絡をもらった。

「もう限界です。もう今日です。」

父は力を絞って目の前の私と母を順々に見た。(睡眠薬で深い睡眠に入っていたらしいが、はっきりと私達を見た。)

「おとうさんありがとうね」

父が私達に目で伝えた後、私と母はなぜかその場を無性に離れたくなり、二人して席を外し下にコーヒーを飲みに行ったりした。

その際に父自身の呼吸が停止したようだった。

それでも人工呼吸で繋がれていたため画面上はまだ生存している状態であった。

モニターでは徐々に徐々に数字が下がっていった。2時間ほどあったと思う。

他の臓器の機能も著しく低下し、回復が不可能、血圧も回復不可能ということで人工心肺のスイッチを切っていただくことになった。

夕方の死亡時間となった。

けど私は呼吸が停止した時が正しい死亡時間なのでは。と思った。であれば夕方ではなく3時前くらいだと思う。

父は亡くなる瞬間は私達に居てほしくなかったのかもと感じた。

亡くなった時から葬儀を終えしばらく、私はどういうわけか胃の調子が悪くなった。
病院に行けば「ストレスです」で済まされるだろう。

信頼のおけるエネルギー調整の先生に見ていただいた。
父が亡くなる瞬間のものすごく寂しいという意識が胃に入ったと言われた。(胃の不調の原因がわかったのちは回復した。)

人が亡くなってからどうなるのかわからないが、
確かに急にこの世の生活からおさらばしなくてはいけなくなるというのはそりゃ寂しいだろう。

父が亡くなってしまって、姿形は見えない存在となって、確かに悲しさや寂しさというものはある。

でもなぜだろう。

また会えるし。と感じたのだ。
続く→