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作品・日々の観察・制作

伊豆朝日に照らされた海岸

父との最後

2年前の話になるが父との最後の場面を書きたい。

私は大学から東京で、その後こちらで結婚して子育てしたので(両親とは)離れて暮らしてかれこれ35年になる。

実家は神戸にあり、子育ても忙しかったのでこれまでそんなに帰省しておらず、子供が大きくなってからは年に1回帰るような感じだった。

その年の初めに、娘が無事大学に受かり、報告がてら私も両親に久々会いたいと思い、入学式のある前3月の下旬に娘を連れて神戸へ1週間ほど帰省することになった。
また、その頃母に胆石が見つかり、痛みがひどいというのでそのことが少し心配ということもあった。

父とは半年ぶりに再開した。
5年前に足を事故して以来、会うごとに歩き方がちょぼちょぼして老いが進んだような気がした。
一歩進むのに何秒かかるの???というくらいの遅さ。

身体を気遣ったような言葉をかけると自身の体の状態がどうであれ
「なんてことあれへん!」(=どうということはない)と逆に怒られるような返事がいつも返ってくるのだった。

私が帰省したとき、自宅から三宮までバスで行き、おいしい高いうなぎを買って来てくれお土産に持たせてくれるのだった。
その帰省したときはあまりお天気が良くなく、父の体調もあまりかんばしくなかったのにも関わらず、
「(うなぎ買いに)三宮いく!」
「あかんて。お父さん。雨ふっとうし足元あぶないからやめとき」と母に反対されていた。

東京へ戻る日、新幹線の時間まで時間があってこたつで父・母・娘で歓談した。

これから行く大学の話やら、何やら、、

「おまえ~身体だけが資本やで」(父)
「おとうさんこそ」(私)

いつものことだが、この新幹線に乗る前のひとときの歓談は私達にとってとても大切だったなあと思う。

その時、私のハートの奥で
「このシーンをビデオに収めなさい!」との声が聞こえた。

そう。特別な場所でなく、普段着での普段の談話、いつものこたつ談話。。
一瞬「まあまた撮ればいいじゃん。こんな、、普段のシーン。。」と思いかけたが心の声に従うことにした。

お父さんはゴロゴロ寝転びながら、
お母さんはお父さんに茶々いれながら、、わはは。。。という私達にとってはいつものシーンを携帯で1分ほど録画した。
「おとうさん!ビデオ撮ってるで!!ちゃんとした顔せな!死んだような顔しとったらあかん。笑」(母)

これが最後の歓談になるとは思いもしなかった。

時間が来て門のところまで父はちょぼちょぼ歩きながら私達を見送りに出てきてくれた。

その時私の胸の中がワシャワシャワシャ・・・となんだろう、怒り?でもなくなにかわからないような小さな感覚を覚えたのだった。
あとになってわかったのだが、「これで最後なんだよ」と胸騒ぎしていたようだった。

新幹線で娘と東京に夕方戻り、散らかった部屋を片付け、夕食をとって風呂に入りのんびりしているときに、ふと尼崎に住む弟にラインを入れたくなった。

母の胆石のことを伝えたくなったのだ。

「・・・・胆石のことで痛がっていたし、久々実家帰りました。・・」みたいな内容の文章だった。

「え。そんなこと聞いてなかったよ」(弟)
などやり取りしている最中に弟と私に動転した母から電話が入った。(このタイミングがすごかった)

父が風呂で苦しそうにうずくまり、顔色が変わったので急遽救急車で運ばれたと。

え。え。さっき昼間話ししたばっかりやん。え。しかも今こっちに戻ってきたばっかりやん。。。

「あたしもう一回神戸に行ったほうがいい?」
「いや。様子見て連絡するからそこで(東京で)待機し。」

神戸から戻ってきたその日にそんな出来事が。。。

眠れない。電話が怖い。ラインの音まで怖い。。

夜トイレに10何回も行った。(リラックス状態の対極の状態だと思った)

朝4時に弟からの連絡で、
救急車で運ばれたあと、大手術をしたと、心筋梗塞で危なかったと言うことを聞いた。

いつ逝ってもおかしくないそうだ。