スミコ幸福論その2
「幸福について」ショーペンハウアーより
最近、無意識にも「幸福論」的な書籍を手にとることが多くなった。
先日からショーペンハウアーの「幸福について・人生論」を読んでいる。
ショーペンハウアーは18世紀のドイツの哲学者だ。
背景や基礎知識は割愛するが、この「幸福について・人生論」はアリストテレスやセネカ、ゲーテの言葉などが引用されて人間の幸福について書かれていて非常に面白い。
時代や場所が変わっても、本質的な話は変わらないものなんだなとつくづく思う。
健康第一
ショーペンハウアーは、心身の幸福にはまず第一に「健康」であることが条件だと言った。
「健康な乞食は病める国王よりも幸福である」
確かに、「不健康」では身体へ意識やエネルギーを使わざるを得なくなるので、それはまさしくそうだと思う。
不健康とは言わないまでも、「何かわからないけどすっきりしない」気分の時や「ちょっとイライラする」など感じる時に、予定を横に置いといてヨガのクラスに参加してみたら、クラス終了後「すっきり」とし、気分が前向きになれることがよくある。
これは身体の中の「すっきりしないエネルギー」や「イライラを引きおこす何かの要素」がヨガによって流されたのだと思う。
運動はとても大切だとショーペンハウアーも本の中で言っていた。(具体的に一日2時間以上とも言っていたが)
「ファイン」な自分で「幸せ」を感じるためには「健康」であることが前提。というのは大きく頷ける。
過去のネガティブな感情は身体のどこかで記憶していて、それは、あるタイミングが来た時、放出したがる。
身体の中で長年小さく渦を巻いていたものがそのなにかのタイミングで渦が大きくなるのかもしれない。
「あーなんか小さいことでイライラしてるなー。。」と思いつつカレンダーを見たらやはり新月のことが多い。
たまにイライラ、、ネガティブなスパイラルに陥ることがあって、カレンダーを見て新月だと知るとちょっとホッと安心する。
(「私や(イライラの)対象が悪いんじゃなくて月のせいなんだ。宇宙のバイオリズムなんだ」って。)
そういったときは温泉・岩盤浴・足もみマッサージで解消することにしている。
イライラは、蓄積されたネガティブエネルギーが出たがっているのだと思う。流されれば大体は解消するので身体の方からアプローチしている。
それでも忙しかった子育て期はそういう時、子供にあたってしまったかなあとちょっと反省。余裕が出来た今だからそんなことが言えるのかも。
あたられた子供の方に「ネガティブなエネルギー」が身体に蓄積してなければいいけど。。。
わたしらしく生きること
また、人の幸福について必要な事柄についてさまざまな話がされていたが私が印象に残ったのは、
人の本来有するもの(あり方)こそその人の人生の幸福のために最も本質的なものなのだ
これについてショーペンハウアーは、「生まれつき与えられた資質を最大限に活用すること」であり、柄に合った仕事や生き方、修行を選んでいくことが大切であると問いた。
それって
本来のわたしにあった生き方をするために、わたしらしい活動を、わたしらしいやり方で進めていく事が、わたしにとっての幸せにつながる
ということだと私は解釈した。
これについてはゲーテの詩が引用されていた
汝のこの世に生まれたその日、
日輪を迎えた惑星のその時の星配りそのままに、生まれた時の生きてに従い、早すくすくと育ってきた。
これよりほかに道もなく、おのれを捨てるすべもない。
こういうことはその昔、巫女どもが、予言者どもが言うたげな。
形を具えて、さかえゆく生命は、時にも、力にも、砕かれはしない
本来のわたしにあった生き方をするために、わたしらしい活動を、わたしらしいやり方で進めていく事
これは最もシンプルで最も難しいことのように思う。
人間が人としても生物としても長いスパンでもって発展をもたらすにはありきたりの生き方の模倣ではなくて 「わたしらしく生きる」ことが最も寄与する形になるのではないかと思う。
ギタンジャリの詩の好きな一節を思い出す。
おまえ自身に近づく道は 一番遠く、
単純な枯れた音色を出す楽の修行がいちばんけわしい
ショーペンハウアーに戻るが、「真の幸福を得るための活動」として、生きるための生活そのものの活動以外の「知的活動」が必要であるという。
本の中で例に上げているのは
昆虫採集・鉱物採集・絵を書いたり、他人から見てとるに足らないことでも、本人にとっての楽しみ・趣味のようなもの・内側で幸せを感じる活動を継続して行い、独自の世界を気づくこと。
いわゆるオタクである。オタクは幸せである。
この内側の幸せな活動は現実世界(外側へ幸福を望むこと)のみに望むことに比べて、悪友の予防、浪費も少ないと述べている。
この「内側の幸福活動の充足」は、いわゆる「好きなこと」であって、時間を忘れてしまうほど没頭したりする世界であったりするので本人にとっては楽しい世界である。
「小さな頃からこれがやりたい」と言えるようなものを今も継続できている人はとても幸せだ。
ショーペンハウアーに戻るが、幸福の敵は「苦痛」と「退屈」であると。
お金やモノをたくさん持っていても、その独自の世界を持っていない人はどこへ行っても何をしても結局は「退屈」であると。
そして「退屈さ」を紛らわすために「社交の場」へ行くとあった。
まああえてここで「社交」の否定はしない。「つながり」と捉えれば人が生きていく上では必要なことだとは思う。
(本では違う「つながり」とは違うニュアンスで「社交」という言葉を使ったのかもしれない)
だが、上のような「本人独自の楽しみ」にふけるときは「孤独」であるほうがよい。
「自分との対話」を必要とするからだ。雑音は無い方がいい。
何が大切かって、やはり「自分との対話」であると思う。
何をもって心地よいとするか。や、「私の魂が喜んでいること」は当たり前だけど一人ひとり違っていて、本人の微細な感覚を頼りにするしかないと思う。
これをやっていると時間があっという間に経ってしまう。とか
これをやっていると体の内側がワクワク喜んでいるような感覚を覚える。など。
この微細な感覚をキャッチするためには、反対の「望まないことを行った時」の身体や心の状態のデータが必要となることもある。