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作品・日々の観察・制作

どう生きるか・その3

あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って『わたしにはなんの楽しみもない』というようにならないように

コヘレトの言葉

やってみて「どうか」「どう感じるか」全部経験したくてしている


現代の私たちは何かを選択したり、なにか行動を起こす前にスマホで「メリット・デメリット」を調べてから行動する癖がついている。あまりにも情報が多く、また買い物もネットで比較して購入することが当たり前な時代なのでそうなってしまっている。

様々な知識や人の意見は周りにはあふれていてどれも間違ってはいない。

私は自分の夢の中でその啓示を得たのだが、
大切なのは「知識」を得ることではなくあくまでもこの地球上で「経験」するために生まれてきているということを忘れてはならないと思う。

気になることを調べる経験
出会った人から受け取った情報で色々感じた経験
うまいこといきそうだったのに一見失敗してしまった経験
考えたとおりになる経験

すべて・すべて。。

「経験をしているんだ」という軸で捉えたら「失敗」って存在するものなのだろうか?

4年前、父が亡くなった時、「父が亡くなった」という捉え方だけでなく、
「父との経験でいろんなことが学べた」
「自分の経験の中に父という存在があった」というふうに捉えると、
ただただ亡くなったから悲しいとかいう視点ではなく、一つづつの父との経験が自分のために貴重だったんだなあ、と感謝の気持に変わったものだった。

自分の中の小さな「声」

自分がどういったことで快・不快を得ているか。
どういったことで・どういったシチュエーションでテンションが上がるか。下がるか。
小さなことのように思うが自分を知るためにも小さな「声」を聞いて日記にメモしていく。


経験の一つ一つで自分は何を感じるか気づいていくことが大切なのだが、
周りに流されてしまったりしてわからなくなることも多々あると思う

子供の頃からそういった「自分を知る上でのスペック」が明快であれば良いのだが、
(というか子供時代のほうがはっきりしている)
集団生活の中で小さな頃から私たちは周りとの調和を余儀なくされ、周りのノイズに巻かれてしまって自分の中の小さな「声」に気づかないで過ぎることも多い。


現代の子供の生活自体、必要以上に忙しいものになってしまったことと、必要以上に管理された社会の中で、例えば子ども自身が自分の持つ直感に導かれてなにかの遊びを始めたり、思いついた友達を誘って何処かへ行ったり、という自分の直感に基づいて行動した結果、得られる満足感や不快さ、失敗などもあるだろう、そういった貴重な経験をする機会自体が少なくなってきているように思う。

自分に合った生き方、自分が何を求めているか。

これに対して答えていくためには、真の自分自身への理解を必要とする。

真の自分自身への理解のためには、「内観」することが大切だ。忙しい日常の一コマの中で少し立ち止まってみる。

そして真の自分自身の理解をするためにも、経験で得られた「自分がどう感じたか」という自分の中にある感覚のデータがとても大切で、
それは頭で覚えているものだけではなく、足や手やお腹、細胞が覚えていたりすることもある。

子供時代に培ったそういったデータは一生の宝物である。子供時代にしかできないことはたくさんある。

自分の活力を上げるものはなにか

「内観」といっても子供は自然にできているものだ。

「好き」か「嫌い」か。の選択をベースとする。自分に問いかける。

問いかけは、「これ好き?」「これ嫌い?」が良い。
複雑な問いや否定形では答えをキャッチすることができない。

一人の人間の中には底知れない「力」が内在している。

「力」言い換えれば「エネルギー」だ。
自分の持つ自分に与えられた「エネルギー」を最大に発揮してこそ、私達の人生そのものが輝き出す。

自分のエネルギーにとって何が自分自身の活力を向上させるものか?

環境・食べ物・知識・しいては仕事・本・運動の種類・・・

17世紀のオランダの哲学者スピノザは全てにおいて、善い・悪いは存在しないと言った。
食べ物、物事全てにおいて。だ。

「おのおのの個人の活力が高まるもの=その人にとって善きもの」と捉えた。
私達の会話で言う、「合う合わない」に近いニュアンスかなと思う。

有名なタレントが「これ良いから」と宣伝したからといって必ずしも自分にとって良いものであるわけではない。

一人ひとりその善い・悪いは当然違っていて自分がアガるものを選択し続けていくことが必要になってくる。

自分にとって自分自身の活力を上げるものはなにか?は自分で試して探していくしかない。

私達はすでに完全形

そして、今すでに「完全形」であることに私たちは気づいていない。

では、なぜ「完全」でないと思ってしまうのか?

ひとつは、外側にある人や事と比較して「自分にはない」とか「自分にはまだまだ」と感じてしまうからだ。

現代は「あなたにはこれが足りないでしょう。だからこの商品が必要なのよ」的な広告に満ち溢れている。毎日浴びるようにそういったような情報が視界に入ったり、耳に入ったりして取り入れられていく。
溢れすぎている情報から距離を置くことが現代人には必要なことだと思う。

それから子供の頃に親や大人、周りの人から植え付けられた意識は結構体内に残っているものだ。

私も二人の子供を育てた親なので偉そうなことが言えないが、親は伸び伸びと子供を育てたいといいつつ、自分が子供の頃に受けた心の傷や言葉を自分の子供に無意識にも伝えてしまうものだ。
また、子育てにおいては、その子供が大人になり社会の中で生きていくためにとその親なりの「常識」を子供に植え付けたりするものだが、その植え付けられた「常識」が役に立つこともあるが、その子がその子らしく何かを進めていきたいと思った時に弊害になることも多い。

子供の可能性の芽を親が潰してしまっていることは結構ある。

一人の人間の人生を人類の進化の一片だと捉えた場合、
親の言うことなんか聞かないでガンガン自分でやりたいことをやっていく。くらいでちょうど良いのではないかと思う。明らかに人に迷惑がかかること以外で。
親には感謝しつつ。。(反抗しながら感謝、は難しいことだが。)
成人してもずっと親の言うことを素直に聞いて従っているいい子。。って本当にいい子なのか??。

80を迎える私の母はこの年になって子供時代に祖母から言われた彼女の存在意義に関わるような一言を未だにしっかり覚えている。そして基底のチャクラに影響を及ぼしていて足などの下半身に問題を常に抱えている。

違和感を覚えるときはそれに気づくことがまず大切である。
伝える必要があるときは自分の気持を正直に伝えるしかないと思う。

怒りたいときは怒っていいのだ。貯めないほうがいい。

シンプルだか、それしかないと思う。

喧嘩になることもあるし。、うまく伝えられないときもあると思う。

相手が怖いからとか、相手との関係が壊れるからとか色々あるとは思う。


その譲れない部分においては人に巻き込まれてはいけない。
たとえその時伝えられなくても自分の日記にでもよいから違和感を覚えるものは、しっかりとそれを表現しておくのがよいと思う。何年か経ってからそれを見た時に、現状問題とされていることと、繋がっていたりするものだからだ。

感じて・気づいて・表現する。それはいかにも人間らしい行動だと思う。
それが、その表現がのちのちになにかの役に経ってくることがあるかもしれない。

昔書いたその表現を、なにげに見た時というのにもご縁があったりする。(まさしく今なんでそれを見る?)みたいな。それ自体も必要な経験の一つだったりする。