山歩き・内省
高尾山のネイチャーガイド、言語・非言語のファシリテータ・高尾の友人でもある佐々木薫さん主催の「森から学ぶ私たちのこれから Vol.6」に参加した。
今回は2度めの参加である。
高尾山で自然を五感をフル活用して感じ、植物や鳥の話のガイドを聞きながら山を歩き、お昼は薬王院で精進料理をいただくというとても贅沢で大好きなイベントだ。
山歩きと内省
山歩き(山でなくても散歩も同様)はいつもと同じ道を歩いていても
緑の匂い・鳥たちの会話・足元の根っこ・空気などその時々で観察する対象も変わり
新鮮な感動を与えてくれ、感じることも違う。
ちなみに私の日常は近くの小さな山や川へ散歩するのだが、ほぼほぼ同じコースを歩く。
ちょっと悩んで答えが欲しいときなんかは山散歩の前に「小さなお祈り」を入れるときもある。
「私は今朝この地球に降り立ったばかり」という宇宙人のような思いを散歩の前に意識すると感動がより深まる。
高尾山で花や植物の知識を得たり、お参りや、食べるものだけにフォーカスというのではなく、
それを通して内省、対話し、シェアリングして気づきを深める。といったこのイベントの趣旨が私にぴったりだ。
人間は 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚さらに温度を感じる感覚・痛いという感覚など様々な感覚を持って生まれてきている。
どの感覚も生きていく上では大切な感覚であると思うが、私の最近の生活はかなり視覚優先だ。
視覚優先で狭い世界での狭い考えにとらわれがちな私に五感をフル動員させる山歩きは意識が広がる感じがして大好きだ。
(これってワンダーランドだよなあって。ワクワクニヤニヤしながら歩いてしまう。)
てんとうむしの顔を観察。
なんちゅう可愛さ。プチっとしてる。
葉っぱの地面が広く見える。
ウリノキ。
花が開いたら花びらが巻き上がってカールする。
虫さんへのアプローチ?なぜ下を向いて花を咲かせるのか。
今は梅雨入り前のガクアジサイ。
生物全てに言えることだけど
大体なんでこんなデザインになるんだろう??とすぐ思ってしまう。
大学で建築デザインを専攻し、今はジュエリーデザインを仕事にしている私は、いつも「デザインってなに??」と思ってしまう癖があるので。
生物、植物がどうしてこういう形をしているのか。どうしてこんな香りがするのか。
神の御業は素晴らしい。
このガクアジサイ一つにしても、
持った役割を果たすため、生きていくために環境に適応し長い時間をえて少しづつ変化してこうなってきている。こうなるのは必然なのだろうけれどもそれが美しい。無駄がない。
ふと 神=生きようとするエネルギーのことなんだろうな。と思う。
山歩きでの何気ない会話から生まれるもの
自然のエネルギーからくる造形そのものの観察からの気づきもあれば、一緒に歩く人との会話からも気づきを得られることも多い。
新鮮な空気を吸いながら、山のエネルギー満載の中、歩きながら何を思いつき、会話を交わすか。
山は、(上にも書いたように)生きていくために環境に適応し長い時間をえて少しづつ変化しているものワールドなのだ。
今回はそこまで深刻な会話はなかったけれど、子育てや仕事の悩みなどのカウンセリングは山の中がいいと思う。
その人の「悩み」や「迷い」へのアプローチの最善は対話・カウンセリングだと私は勝手に思っている。
なんだかんだいっても、本人自身が内省し、気づきを得ていく方法が一番なのではないのかなと思う。
パワースポット考
高尾山はパワースポットとして多くの登山客で賑わっている。
この日も梅雨入り前の土曜だったのでかなり多くの登山客がいた。
パワースポットとは神聖なる地で、富士山やハワイ、沖縄や私の好きな小豆島もそう言われている。
火山活動などで地の新陳代謝が盛んなところをパワースポットというのか。
聞けば高尾山は何万年前かは海の底だったらしく、今でも化石が出現するそうだ。
会話にも出たけれど、「古いものが破壊→新しいものが生まれる」という流れにあるのならば、
新しいものを生み出すために(もしかしたら一見望ましくない)古いものへの破壊は避けられないものなのかもしれないとひとり思う。
それならば、一見望ましくない状況も新しいものを生み出すためのステップと捉えることができたらよいのだけれど。
たしかに「生まれる」ことばかりだけだと人も物も何もかもいっぱいになりすぎるよなあ。。と黙々考える。
山登りも少々のアクシデントがあり、(←アクシデントによる予定変更も楽しかったりする)
なんだかんだでランチの時間となった。
薬王院の門をくぐった先にあるかなり趣のある建物だ。
建物の裏。
雨樋が銅板。屋根も銅板。
板張り外壁の中にたくさんのドアがわからないように設計されている。
食べる瞑想・サイレントミールの話は次回。