スミコ幸福論3
冨・豊かさについて考察
アリストテレスは人にとっての冨を「外的財宝」「心の財宝」「肉体の財宝」と3つに分けたそうだ。
自分は3点共に満たされていると感じるならばそれは最高の人生である。
外側の目に見える富とは、得られる「モノ」「お金」「土地」「食物」「友人」や「名声」などがある。
それらを得るために、日々様々な活動がなされる。
人間として生まれた以上都度必要なものは必要とするのでそれらを得るために人は活動する。
肉体の財宝は言わずもがな「健康体」であることだと思う。その話は前回のスミコ幸福論2
幸福についての根本規定としてショーペンハウアーは
1.人のあり方。すなわち最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこのなかには、健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成度が含まれる。
2.人の有するもの。すなわちあらゆる意味の所有物。
3.人の印象の与え方。他人の抱く印象に映じた人のあり方、名誉と位階と名声 -人生論 ショーペンハウアー
と延べている。
若いうちはともかく、心が明朗でないと真の健康体が得られないように思う。
魂が喜び→心が喜び→細胞たちも喜び
といった関連性を信じている。
仮に何か具合が悪くなり、病院へ行った時に医者からよく言われる病気の原因のセリフのひとつに
「ストレスですね」
なら、何に対してどうストレスを感じているのか根本の原因がわからないと根本治療にならない。ストレスで片付けられることが多い。
幸せに生きていくためにも、本来その人の望むこと(好きなこととも言われるが)そういったことが仕事でも趣味でもなんでも生活の中にあり、充実した日々を送ることがとても大切なことなのではないだろうかと思う。
内側の富・好きなこと・やりたいことの考察
「その人にとって一番の豊かさはその人の中にある」と言われる。
ではそれは何であろうか。
一つに元々兼ね備えたもの、「明るさ」「真面目さ」「品の良さ」「美しさ」・気質などもその人の豊かさに含まれると思う。
そして、
没頭できる「好きなこと」が大切なのではないかと思う。「好きなこと」という言い方はもしかしたら少しニュアンスが違うかもしれない。大げさなことでなくてもい良いと思う。
「損得無しで、時間を忘れて打ち込んでしまうこと」があれば幸せだ。
そこには時間の概念もないし、必要経費はあるにしても、経済性優先の世界ではない。
幸福は自ら作るものであってそれ以外の幸福はない トルストイ
例えばなにか一つそのことをする。すると次はこうしたいと欲求が生まれる。で、それを実現させてみる。というように、小さいながらにも更新されていき、育っていく。自分のやり方で育てていく喜び。。
そして自分を忘れるほど没頭できる時間は幸せだ。
ところで「やりたい活動を仕事にしましょう」という意識が最近高いが、
この「やりたい活動」と「糧を得ること」を足早に結びつけると、「本来やりたかったこと」に対して充足が得られない状態になってしまうことが多々ある。両者がうまくかみ合うまでに時間を要することもあるのではないだろうか。
私の場合で言えば
小さな頃から手を動かして何かを作ることと、なにか発想をしてそれを作るのが好きだった。
大学の専門は建築で、卒業後は環境・建築系のデザインに携わることになった。
やがて子供を出産し、「自分のやりたいこと」に取り組む時間が取れずにいた。
自分の中で種火のような小さな炎ではあったが心の奥で「やりたいこと」の火種がずっと燃え続けていた。
子育てが落ち着きだした頃、自分との対話を重ねた結果ジュエリーの作品を作るようになった。
やがてこれらを「販売」していくようになった時、「いかに売れそうなものを作るか」というところに意識が向いた自分がいた。
お客様あっての販売なわけだから、「いかに売れそうなものを作るか」という意識自体、悪いことではないしむしろ必要なことなのかもしれない。
しかし常に自分軸に立ち返り自分と対話をしていかないと
本来「自由に発想したものを形にしたい」といった想いが抑制されることにもなりかねない。
決してこの「いかに売れそうなものを作るか」の意識自体、悪いものではなく大切な意識なのだけれども。
それはステップの一つのうちであり、人によってはこの先に進んでいくことができるのだろうとは思う。
「経済性」を優先させた時、自分軸が崩れやすい。たまに立ち止まって本当にそれで良いのか自分の軸を見直すことが大切となってくる。ギタンジャリの一節を思い出す。
旅人は 自分の家の戸口にたどりつくまでに 他人の戸口を 一つ一つ 叩かなければならない。
こうして、外の世界をあまねく漂泊い歩いたあげく、ようやく内奥の神秘に到達するのだ
これがよかろう。あれがよかろうとその時はそう決めて行動に移す。そして常に更新しながら前へ進んでいく。
この地球に生まれて、生きている間に実現したいこと。はひとりひとりの中に必ずある。
それは大なり小なりで、顔がひとりひとり違うように、他と同じということがない。そしてそれがいくつあるか。ということもそれぞれだと思う。
ちょっと思ったことだが、子供の頃の集団生活で、(今でこそ少しづつ変わってきてはいるだろうが、)
「打ち込みたいこと」を学校なりでやっている時に「今は〇〇の時間だから」と皆と同じ事をする事を求められた経験はないだろうか。
私はこの指導そのもの全てを批判したいわけではない。
人間は大人になると当人が避けようが「大なり小なりの集団」というものに入って行く事を余儀なくされる。
それは、その時々の臨機応変となっていくであろうが、「(今は)各個人のやりたいことをやる時間ではない」ということも必要となってくるからだ。
大切なのはそれを教える時に、子供の気持ち、意志を充分に尊重した上で教え諭していくことが出来たらその後のその子の人生は違ったものになっていくだろうと思う。ちょっとのことで違う。
ただ怒られた記憶だけでは、「そのことをやったから怒られた」とその子の潜在意識が認識してしまうと、
その子の持っている「冨」をないがしろにしてしまうと思う。
子育て・教育の場において、この「ひとりひとりの子供の持つ内側の冨」を育んでいこうという姿勢が欲しい。
「自分を充足させる幸福な活動」によって「幸せ」が得られることがわかっているものの具体的にどうやったら良いかがわからない、どうすれば良いかわからないという人も多い。
そういう人には日記・投函しない家族への手紙などをおすすめしたい。
文章が書けない。と思っている人でも、一時間ほどなんだかんだ綴っていくと「自分」がでてくる。
「自分」を出してやることが大切だ。