眠れない夜に

眠れない夜に

自分の中から湧き出たものを文章に表現していこうと思う。
非常に乱筆乱文、話も飛ぶし、正しい日本語でない場合も多いかもしれない。
感じたことをできるだけそのまま表現していきたいので、仕方ないかなと思う。

深夜に目が覚めた。

たまにあることなのだが、その後眠れなくなった。

眠れないときは無理して寝ようとしないことにしている。

では何をしようか。時間はたっぷりある。時間を有意義に過ごしたい。

下の部屋に降りてお茶漬けを食べながら映画を見始めたりした事もあった。

しかしながら昼間、様々な活動をしていて時間の足りなさを感じるくせに、夜いざ時間ができたとき、何をしてよいかわからないものだ。
不思議にこのときに昨夜の仕事の続きをやろうと思ったことはない。

よし。瞑想をしよう。と決めて何分か瞑想した。

何分経ったかわからないが瞑想も終えてまたごろ寝する。

朝の3時半。

雨の音と新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。
家族は別室で寝ている。

ほどよい空腹感で自分と向き合って文章を書くのには適したタイミングだ。
布団でごろ寝しながらペンが進んでいく。

ふと思った。

ただ眠れなくて横たわっている時間の意識と、
同じように目を瞑って静かにしてはいるが瞑想している時の意識と、

一体何が違うのだろう。

姿勢、もあるかもしれない。
でも死体のポーズで瞑想することもある。

同じようでいながら
前者は「眠りたいが眠れない」という意識で後者は「瞑想をするぞ」という意識の違いに気がついた。

前者は湧き上がる思考に付き合っている自分がいる。
思考を盛り上げている。

後者は湧き上がる思考が呼吸とともに、まるで砂の渦が呼吸の渦とともに小さくなっていくような感じである。

(そういえば子供の頃、同じように眠れない時に湧き上がる思考の連想を楽しんだことがあった。
一つの思考→次の思考→また次の思考→5-6回連想に任せる。
そして一度止まり、また
この思考はなぜ起こったか→前の思考→その前の思考→と戻れるとこまで戻ったりするのが面白かった)

ただ横たわっている時の意識と瞑想を決めた時の意識の違いの話だが、
「~するぞ」という自分が決意したのでそうなっている、そういう設定になっている。ということに気づいた。

ともすれば
「~するぞ」という自己決定、これこそあらゆる物事がスタートする時の意識であり、
その意識でその後の設定が作られていることに改めて気がつく。

「~するぞ」と表現するとなんか

「勉強するぞ」

とか

「今から仕事するぞ」、

何故か今思い出してしまった「修行するぞ」(オウム真理教)

「~するぞ」は一つのことに取り組む時の自己決定でニュアンスとしてはやや強い印象を受ける。

「~しよう」も同じく自己決定でこちらはちょっと軽い感じである。

自己決定→行動、の点では「~するぞ」も「~しよう」もとる行動が同じなのであれば「~しよう」のほうが良いように思う。

「~し~ようっと♪」くらいの感じが好きである。明るくフットワークの軽いイメージの決定ワードである。
ではこの「~しよう」(「~するぞ」でもいいが)が全てのスタートであると感じたことでさらに突っ込んでみた。

この時代・この場所・この両親のもとに「生まれよう」って自分で決めたから今の私がいるのかもしれない。

しかしながらこの世では「~しよう」と決めて自己決定を下しても「できない」「事を成し得ない」こともある。
そうするともしかしたら先程の「ここにこの両親このタイミングで生まれよう」の決定も、必ず実現するものでもなかったものなのかもしれない。

そう仮定したとき、
でも現実に私は生まれてきている。現存している。

もしかしたらそれってすごいことなのかもしれないなーと改めて一人わけもなく感動する。

そこでまたふと思い出した。

この時期、夜明けの一時間前くらいから天体を観測すると火星・木星・海王星などが月とともに観測できるという話を見て、
あたしも3時頃起きてみたいなあ。とちょっと思ってしまったことを。

そうか。これも自分で決めたから目が覚めたんだ。。

天体観測しないで文章書いてた。それもまた良しか。

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